甲府基督教会
通称:甲府シティチャーチ
教会の教師
CHURCH STAFF
| 牧 師 | 丸山 綾子 |
| 丸山 義宣 |



教会の概要
CHURCH PROFILE
| 所在地 | 山梨県甲府市北口2丁目4番12号 山梨県甲府市北口1丁目1番4号 |
| 伝道開始 | 1931年9月 |
| 献堂履歴 | 1936年6月 2006年2月11日 |
| 歴代担任教師 | 坂本 きみ (1931年9月~1933年11月) 田中 篤二 (1933年11月~1941年) 和田 一男 (1950年4月~1970年7月) 市川 俊一 (1970年7月~1973年3月) 田中 義信 (1973年3月~1974年3月) 丸山 光昭 (1974年3月~1991年10月) 丸山 綾子 (1991年3月~ ) |
| 備考 |
教会の沿革
CHURCH HISTORY
甲府の町で伝道が開始されたのは1931年9月。坂本きみ師がウエングラー師の助言のもと、二階建ての家を借り、伝道を開始したのがその始まりである。坂本師は全く知る人のない甲府の町で、女だてらに大太鼓を叩き、毎晩のように路傍伝道をしたと言われている。また、初めての伝道集会に於いて、神主によって妨害を受けたことがかえって祝福となり、その騒ぎがきっかけで教会に通う者達が起こされて行った。1933年には、聖霊の豊かな注ぎがあって約30名の信徒が受霊経験をし、弓山師、C・F・ジュルゲンセン師が指導にあたったこともあった。この年の11月、伝道を田中篤二師にゆずって、坂本師は八王子に戻った。
田中師は太平洋戦争に召集されるまで、同教会で活躍した (田中師赴任の時に、 旧会堂が建てられた。ウエングラー師の援助と教会員の献金により教会堂が建設されたという記録が教会に残っている)。戦時中は、一兄弟が習字塾などを開いて教会を守っていた。この時の会堂は、甲府空襲の中、唯一市内で焼け残った会堂であり、市内のクリスチャン達が集まり合同礼拝をしたという記録が残っている(「1945年9月より甲府市内の諸教会は、戦災を免れた甲府市北口のアッセンブリー教会堂において合同礼拝を開始した。」という記録が近隣の教会の記念誌に書かれている)。その後、和田一男師が同教会に赴任した。
和田師は1950年4月より、20年間同教会で奉仕をした。幼稚園を設立しながら伝道牧会にあたり、20年後、引退した。和田師引退後、1970年市川俊一師が伝道牧会を引き継いだ(この時に、エキシー・リチャーズという宣教師が協力牧会をしている)。市川師の伝道牧会の中、多くの若者が救いに導かれていった。市川師の後、73年田中篤二師の長男田中義信師が伝道牧会を引き継ぐ(講壇下には、田中師が手造りで造ったみごとな洗礼層があった)。そして74年丸山光昭師が赴任した。
丸山師は 同教会で17年間牧会の務めをされ、49歳で天に凱旋された。丸山師の晩年の牧会生活は病との戦いであったが、その中でも多くの信徒を力づけた。又、この時にも多くの若者が救われ、その時に救われた者の中から献身者も起こされた(丸山陽子宣教師、石原幸子師)。丸山光昭師の亡き後、丸山(旧姓円岡)綾子師が伝道牧会にあたる。
丸山綾子師は、光昭師の闘病の中、1991年3月に伝道師として赴任し、光昭師が天に召された7か月後に伝道牧会を引き継ぐ形となった。そして、10年間の伝道牧会の後、光昭師の長男義宣師と結婚。夫婦で宣教活動に励む。光昭師が伝道牧会をしていた時に新会堂のビジョンが与えられ、教会の長年の祈りの末、2006年に新会堂が建築され、現在に至っている。
地図と写真
MAP & PHOTOS

