ガリラヤ丸子町キリスト教会
教会の教師
CHURCH STAFF
| 牧 師 | 荻野 倫夫 |
| 牧 師 | 荻野 茶々 |



教会の概要
CHURCH PROFILE
| 所在地 | 長野県小県郡丸子町上丸子八日町11 (1979年5月~1990年9月22日) 長野県小県郡丸子町大字上丸子川原1719-1 (1990年9月23日~2006年3月5日) 長野県上田市上丸子1719-1 (2006年3月6日~ ) |
| 伝道開始 | 1979年1⽉ |
| 献堂履歴 | 1991年9⽉23⽇ |
| 歴代担任教師 | 松吉 正二 (1979年1月~1995年10月) 松吉 理枝子 (1979年1月~2007年11月) 内田 信恵 (2002年4月~2003年3月) 田中 義信 (2003年4月~2013年3月) 田中 久美子 (2003年4月~2013年3月) 荻野 倫夫 (2013年4月~ ) 荻野 茶々 (2013年4月~ ) |
| 備考 |
教会の沿革
CHURCH HISTORY
1979年1月、松吉正二・理枝子牧師夫妻は「丸子町聖書センター」の名称で、バーの2階にて丸子開拓を開始した。同年5月、一軒家を教会兼家族住居として賃借し「丸子町キリスト教会」(単立)と改称する。正二師は、保険外交員として家族を養いながら、伝道牧会に励む。上原和雄牧師と共に「マクレイン先生の一番弟子」を自認する正二師は、D・マクレイン宣教師を敬愛し、その伝道スピリットを継承していた。丸子町キリスト教会では、多くの伝道師や宣教師の協力の元、活発な伝道がなされた。また丸子から、信州はもとより北陸や中国教区まで足を延ばし、伝道協力がなされた。
1987年、長野県佐久市臼田町に「臼田町キリスト教会」を開拓する。この開拓教会は、2010年9月、単立「佐久ホープ・チャペル」(村山清人牧師)として新生し、現在に至る。
1990年、正二師は「信州リバイバルミッション」を設立し、実行委員長となる。長野県下の諸教会を訪問し、田中正男師の集会を各地で設定した。同時期、兄弟姉妹が信仰をもって会堂献金を献げ、棟梁の教会員が廉価で工事を引き受け、念願の会堂が建築される。これを機に、イエス様が巡り歩いたガリラヤのように、この丸子地域を巡り歩き伝道したいという思いを込め、「ガリラヤ丸子町キリスト教会」という名称を並行して用いるようになる。1991年9月23日、上原和雄牧師司式の元、献堂式が行われた。1995年9月22~24日、信州国際音楽村にて、信州リバイバルミッションが開催される。この直後、正二師は急病のため入院し、10月、入院中の丸子中央病院にて、多臓器不全のため急逝。60歳であった。この後、正二師夫人の理枝子師が主管者となり、伝道牧会を引き継ぐ。1997年10月、丸子霊園にカラフルな教会墓地を建立する。ペテロ石材が岡山から足を運んだ尽力によるものだった。
2000年、一人での牧会に困難を覚えていた理枝子師は、教団から牧師を派遣してもらうという条件付き加入について上原和雄師に相談する。2001年5月、内川寿造総務局長の下で、教団加入が認可される。上原和雄牧師が主管者となる。
2002年4月7日、内田信恵伝道師が就任し、1年間理枝子師と協力しながら伝道牧会を行う。
2003年4月13日、田中義信・久美子牧師夫妻就任式が行われる。田中師牧師夫妻は10年に渡り、地域の大正琴やコーラスのグループに教会を開放し、地域になじむ伝道を行った。田中牧師夫妻引退直前の2012年12月、毎年2回返済していた教会の土地代について、信者ではない地主さんが寛大にも残金800万円を帳消しにされる。
2013年4月7日、荻野倫夫・ミャンマー人の茶々牧師夫妻就任式が行われる。バンド活動や引きこもり支援などを通し、洗礼者が起こされる。洗礼は教会で準備したプール、または丸子のヨルダン川として名高い依田川で行われる。説教に英語通訳をつけ、国際色豊かな人々が35名程集まって、礼拝を献げている。荻野師夫妻息子が幼稚園通園時、ママ友から乞われ、教会で子ども英語教室を始め、月・水・土と幼稚園から中学生の近所の子供たちが集まっている。
開拓当初から苦楽を共にした、シャイだがずくがある(信州方言「よく精を出す」の意味)忠実な信徒と新しく救われた人々は、神と賛美とみことばをこよなく愛し、教会に仕え、牧師一家を愛し支えている。
教会は、丸子地域2万人、上田市15万1千人(2024年現在)の救霊のために日夜祈り求めている。丸子の先代の牧師たちから引き継がれ、教会はラジオ伝道「世の光」を支える働きに協力しており、年1度超教派の伝道集会が行われている。東信の牧師たちは、牧師会後共にラーメンをすすりつつ「日本のリバイバルは上田から」を叫んでいる。
地図と写真
MAP & PHOTOS





